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熊本簡易裁判所 昭和33年(ろ)622号 判決

被告人 沢村健一

昭七・一〇・一〇生 材木商

主文

被告人は無罪。

理由

(一)  公訴事実

本件公訴事実は、被告人は昭和三十三年九月十九日熊本市高江町千百九十四番地末藤甚蔵方において同人と材木代金のことで口論した末その左肘関節部に噛みつき、よつて同人に対し全治五日間を要する同部咬傷を与えたものである、と謂うにあり本件各証拠を綜合すればこれを認定するに十分である。

(二)  ところで弁護人は被告人の右所為を以て正当防衛だと主張するので以下この点について考えよう。

本件に顕われた各証拠(ただし後記認定に副わない部分を除く)を綜合すると、被告人方は材木商を家業とするもの、被害者は土建業を営み当時六人の従業員を擁していたものであるが、被告人の父沢村一喜は昭和三十三年九月中頃被害者より柱材二本の注文を受け一本当り金千五百円計金三千円の約でこれを売渡し同月十九日被告人が被害者方へ右代金の請求に赴いたところ同人は代金が金二千八百円だとして同金額の小切手を振出したので、被告人がその違約を詰つたけれども「親父に聞いて来い」と言つて聞き入れなかつたこと、そこで被告人はいつたん自宅に戻つて代金を確かめた上再び被害者方に出向いて自分の主張が正しい旨答えたのに対し、被害者はさらに「親父ば言うて来い」と称してこれを受けつけなかつたこと、被告人はやむなくあらためて父と同道の上被害者方に赴き、父一喜は土間の上り口に腰をかけ座敷の上にいる被害者と相共に論争しはじめたこと、被告人はかねて被害者に関する悪い評判を耳にしていたため、被害者が右論争中父一喜の方に近ずくのを前記土間のやや表入口寄りにいて認めるやあるいは一喜が被害者から危害を受けるのではないかと危惧し、一喜に対して「そんなにひつついて話しなすな」と言葉をかけたこと、被害者はこれを聞いてやにわに激昂し、「主や生意気かぞ」といいざま土間にとび降り、左手で被告人の襟もとを掴んで土間の大戸に押しつけ右手を振り上げたので被告人はこれをふりきつて逃げようとしたが強く掴まれていたために果さず、このままでは殴打されるかも知れぬと直観し、とつさに被害者の左肘に噛みつき同人が思わず手を離した隙に外へ逃げ出したこと、その直後被告人は一喜の身を案じて被害者方の表口にひきかえして内部を窺つたところ、一喜が被害者とその従業員のひとりとに座敷へひきずり上げられて殴打され鼻血などを出しているのを認めたけれども、どうすることもできず、付近の駐在所に駈け込んで救いを求めたこと等の事実が認められる。右事実によれば被告人の前記本件所為は被害者の急迫不正の侵害に対し自己の身体の安全を守るため、やむを得ずしてなしたものと解すべきである。もつとも被告人が右所為に出た当時一喜が被害者の背後より抱きついて被告人に対する被害者の攻撃を防止しようとしたことも本件各証拠を綜合して認めることができるけれども、この事実を以て前記結論を左右することはできない。

(三)  よつて刑法第三十六条第一項、刑事訴訟法第三百三十六条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 嘉根博正)

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